g_song's blog

備忘録的な。@g_song2

過程と結果

先日?ん?もう終わってるんですよね?Dr.倫太郎|日本テレビというドラマが終わりましたね。
精神科医を主人公にしたドラマです。

案外こういうものは馬鹿にできません。テレビは斜陽と言われて久しいですが、狼煙などに比べればまだまだ強い影響力があります。異論がある方は狼煙で連絡願います。

みなさんは当然見たと思います。良いドラマでしたね。僕も見ればよかったです。「じゃあ記事にするなよ」って感じですが、コメントで問われましたので期待には応えたいのです。

主演は堺雅人さんでしたね。僕は「南極料理人」「リーガルハイ」「犬のやつ」「あのほらみんな見てたっぽい銀行員のやつ」ぐらいしか見てないのですが、そこから想像したいと思います。

たぶん「若い頃はメダロッターとしてぶいぶい言わせていたカリスマ精神科医が患者を率いて敷地内に池を作ったりバーベキューしたり犬の繁殖したり、その予算をもぎ取るために法廷に立ったり」みたいなストーリーだと思います。想像ですが。

……まあ流石にどうかと思いましたので上に貼ったリンク先を見てストーリーを把握しました。正直に言うといまいち誰が誰なんだかわからず把握できませんでした。患者さんが同じ文章を滔々と語ったら「まとまりにかけるなぁ」と聞き流すと思います。

ただ、ストーリーなんてものはどうでも良いことです。そういうのは分析医にやらせておけばいいのです。重要なのはこれをみた視聴者が「精神科医は患者の為を思って日々懸命に働いている人たちなんだ」「尊敬せずにはいられない」「薄給で働く精神科医志望の研修医に多額の寄付をしよう」と思ってくれたかどうかです。

いまのところボーナスが出る予定がないところを見ると、カスみたいなドラマだったんでしょうね。制作費を僕に横流ししてくれればいいのに。

当たり年とは

今年は1stフラッシュの当たり年だそうですね。誰が決めてるのか知りませんけれど。

紅茶、というか茶葉は農産物なので年によって品質や収穫量に差が出ます。おそらく「当たり年」でイメージされるのは品質の高さでしょうが、なんだか割と今年は値段も落ち着いているような。

一応今年は現段階で5種類ぐらい味わっているのですが、品質として昨年と大きく異なるのかは僕には正直わかりませんね。茶園も色々ですし。と言うか国内でそれなりに名のしれたお店がそこそこの値段で扱ってる茶葉が美味しくない時はまず淹れ方が適切でないんでしょう。お店だって数ある選択肢から選んで仕入れてるので、わざわざ不味いものは選んでいないと思います。ただ、自宅で淹れた場合は水質やらポットのあたため具合やらが店と異なるので、結果としてあまり美味しくないことはあるでしょう。あとは値段相応かどうかですが、嗜好品でそれを言ってもね……

1stフラッシュの値段が高いのはその量の少なさに起因する場合が多いと思いますので、必ずしも味と比例関係にはないです。信頼できるお店(喫茶部門があって飲んだことがある、かつて購入して値段とのバランスがあっているなど)で買うしかないですよね。

僕は個人的にはネパールの紅茶は値段とのバランスはなぁ……と思ってましたけど、震災もありましたし新しいお茶が出たら今年は買おうかな……なんとなくジュンチヤバリしか選択肢がないのも……なんとなくもやっと……

労働者諸君

働き始めて1ヶ月が経ちました。
1ヶ月も経てばだいぶ業務にも慣れまして、今や職場内を迷うことはなくなりました。ひたすら歩けば階だけあってれば着くレベルになったのです。今後は最短距離で辿り着けるようになり、その次は寄り道してから行けるようになり、最終的には「呼び出しに気が付かなかった」と胸を張って言えるようになりたいと思っています。

慣れない部分もあります。親しげに話してくださる先輩や上司の方の名前がわからないときなど、申し訳なくてたまらないですね。上の方になればなるほど名札が見えなくなるのはどういうことなんでしょうね。各部署のトップレベルの方々は自分の顔と名前が職場中に知られるとでも思っているのでしょうか。思い上がりというものですね。しかし人のふり見て我がふり直せと言いますし、僕も今後は「名乗るほどのものではないです」と言ってやらかした現場から即座に立ち去るぐらいの謙虚さを身に着けていきたいと思います。

世間ではゴールデンウィーク?とかいうイベントなんだそうですね。「金的が弱点」とかいう感じの意味でしょうか。
昨日だったか一昨日だったかの天気予報で「ゴールデンウィークも後半に差し掛かりました」とアナウンサーの人がおっしゃってましたがどういうことですかね。前半はいつだったんでしょうか。年内にありましたかね、それ。

メーデーに参加して労働者の地位の向上を訴えるべきだったのかもしれません。少なくとも労働すべきではなかった気がしております。

求められる人

仕事が始まってしまいました。仕事が。なんと。始まるとは。

ぬるいふぬけた学生生活を送ってきたので「責任」とかそういうむずかしいもじがよめなくてこまります。「主に貝に任せる」みたいな意味ですかね。

で、このブログを読んでいる方が何を僕に求めてるのかわからんという話をしたいわけですが。
え、なんなんすかね、もしかして隠しても隠しきれないインテリジェンスとか育ちの良さと品の良さとか滲み出ちゃってます?いやー参ったわー。隠しときたかったんだけどなー。溢れ出ちゃうしなー。
……みたいなノリのことしか書いてないですよね、基本。

別になんか科学的な話をしたいとか、なにかを人々に問うとか、そういう欲求は僕には基本ないですよ。自分がそんなに正しいと思ってませんもの。
むしろ僕は以前からはっきりと「手に入れた冬コミのエロい新刊をくれ」などと自分の立ち位置を表明しているのですが読み取れませんか?書きましたよね?国語って習ったことあります?義務教育範囲で足りる内容ですよ?なんでくれないの?

コメント欄を無視したり閉鎖したりすればよいのかもしれませんけれども、記事に関係のある話や関心のある話なら喜んで応じたいので、なんか無視するのはなぁと思ってしまいます。こういうところが付け込まれやすいのかなぁ。もう痴漢した息子の和解金を振りこむのは嫌だなぁ。子どももいないのに。

このブログでは最初に書いたとおり責任を負いかねないアドバイスやら意見やらは出来ませんししませんので、インターネットにどっぷり浸かった皆様におかれましては、オフラインで相談できる方に相談してください。もしくはオンラインで調べて消費者センターやら弁護士やらに相談してください。責任を取ってくれる人は納税なり相談料なりを要求するものですよ。エロい同人誌のほうがよっぽど安く済みますよ。

脱線に脱線を重ねましたが、何が言いたいかというと、名古屋コミティアに参加した人は漫画ならエロ非エロ問いませんので戦利品をお送りください。

移動手段

前の記事でも移動の話をしていた気がしますが、確かに毎日移動してるので、もしかしたら僕の趣味なのかもしれませんね、移動。

本日ようやっと様々な人々の協力や自力のメンテナンスや神のご加護などを得て、自転車を手に入れました。自ら転がす車。自ずから転がる、ではない。

23区を横断的な移動をしてみたりもしましたが、運動による健康面でのプラス効果と日焼けや排気ガスによるマイナス効果、どちらが上なのかはわかりません。

「自転車に乗るのは楽しいではないか」という意見は大いにもっともですが、「じゃあ電車に乗るのはつまんないのか」とか考えるとそうでもないですよね。変な広告楽しいし。

小さい頃から車や電車や飛行機に大した関心を抱かずに生きてきたので、まあこれを機に自転車を楽しめれば、そのうち一輪車、三輪車、四輪車でも楽しめるようになるかもしれません。あと20年もしたらプラレールを嗜む中年紳士になってるかもしれません。150年もしたら霊柩車を嗜む老紳士になっていることでしょう。楽しみ。

引越し、その非人道性

引越という非人道的な行為をご存知でしょうか。
今まで生活していた空間から別の空間に移動するという行為です。
言葉にすると簡単そうですし、どこでもドアや四次元ポケットを使えば一瞬で終わりそうなものですが、そうは行かないのが現実というものです。
そんなことはない、なんならこのどこでもドアを貸してやってもいい、というウエスト129.3cmの太っ腹をお持ちの青い機械がいらっしゃいましたら連絡をお待ちしております。どら焼きは用意しますので。

さて、話は変わりますが、ナチスの拷問で「ひたすら1日穴を掘らせ、その後にそれを埋めさせる」というものがあったのはご存知でしょうか。引越しはこれに近い性質を持ち、しかも超えています。

引越しではいかに綺麗にダンボールに詰めても、新居についたらそれを開けることになります。また大量に出るゴミは、このアパートに住んでいる期間のすべてが、拷問における穴掘りと同様の価値しか持たないことを無情にも示してきます。怖い。

次に引っ越すときは全て業者かドラえもんにやってもらおうと思います。ドラえもんの業者ではなく。しかし疲れた。

人生観

人格形成が教科書的にいつ行われるのかはよくわかりませんが、ある日突然ではなく時とともに成していくものであることは間違いないでしょう。
僕の場合、どこまでさかのぼるのが有意かはわかりかねますが、いくつかは挙げられるように思います。書物や漫画や歌詞の影響も大きいですし、中学からの先輩からは大きく影響されたと思っています。いい方向が悪い方向かはわかりかねますが。でも基本的には楽観的に生きてこられているのでいいんじゃないかと思っています。

高校を出てもう随分と月日も経ち、その友人たちと年に1,2回は集まってるようには思うのですが、会うたびに変化のなさと、一方でもともとあったであろう違いが目立つようになってきてるのかなぁと思います。今後は更に開いていくんだろうと思いつつ、まあまた会ったら会ったでなんとかなるんだろうとも思います。意識の低さを高め合えれば、それでいい。