g_song's blog

備忘録的な。@g_song2

異世界転生もの

 

午前八時〇〇分、電子音がホームに鳴り響く。聞き慣れた快活なアナウンスの直後から、低い音が伝わってくる。音にわずか遅れて風が吹く。閉鎖空間に吹く風は温度差を伴わず、ぬるいのか涼しいのかよくわからなくなる。電車は徐々に速度を落とし、やがて止まる。電車のドアの中心線とホームドアの中心線のズレがゼロになるのは難しいだろうが、どこまでのズレが許容されるのかは少し気にかかる。ホームドアが開き、電車のドアが開く。車内は混んではいないだろう。間隔を開けて座る乗客と、手すりにもたれかかりスマホに目を落とす人々。車内の液晶広告は、一昔前に比べると視線をやる人も減っているだろう。
 ドアにもたれかかり、ポケットからスマホを取り出す。さほど関心のないニュースや代わり映えのしないSNSは、どこかへ連れ出してくれはしない。

 午後七時一八分、ホームドアが開き、電車のドアが開く。乗り込み、ドアは閉じた。二分の遅れを詫びる放送も慣れたもので、舌打ちをするものもいない。ホームドアは速度を上げて遠ざかり、やがて外の景色は闇に飲まれる。地下鉄に窓は必要なのだろうか。ああ、他の鉄道会社と直通運転をしているんだった。どこかの区間では地上を走ることもあるのだろう。この電車が帰路と逆方面を走っていても、きっと気がつけないだろう。地上に出ても、夜の街灯は窓の映り込みに勝るほどでもあるまい。何駅か過ぎて、背中のドアが開いた頃にようやく気がつき、慌てて降りて一つため息をつく。そして、無表情で反対側のホームに向かうのだろう。
 疲労にも慣れてしまうということが、ここ最近の発見だった。想定通りの疲労。肉体的にも、精神的にも。体力は眠って回復するのだろうが、心は想定される形に予め摩耗してあるかのようだ。成形された感情は磨き上げられ、光沢を放つところまで行けば作品としての完成か。市場価値でもあれば、その過程に興じることもできるだろうか。
 ドアが開く。SNSアプリを開く。立ち上げる? 適切な日本語はわからないが、何かが開けた感覚も脚に力が入った印象も僕にはなかった。

 午前八時〇〇分、乗り込んだ電車の窓に映る自分を見て、喉仏の少し右側に剃り残した髭があることに気がついた。いや、鏡でもないのに、そんな鮮明に映るはずがない。もともと知っていて、このタイミングで触れたと言うだけのことだ。マスクはこういうときいくらか都合がいい。そのことを踏まえて剃り残した? 無意識? ただの怠惰であってもそれは無意識に変わりない。今から帰って剃り直すわけにもいかないのだから、気づいただけ損だった。
 たまに、漫画の広告を目にすることがある。流行りの? すでに下火の? 異世界転生漫画が、gif動画か何かで断片的に流れ込んでくる。現世に絶望してここじゃないどこかに救いを見出すのは、流行り廃りではない欲求だ。他人からの評価羨望、過去との決別。なるほど、この世界のままで安易に得られるものではなさそうだ。本当は異世界でだって得られるものではないだろうから。夢物語を現実で語れないということは、悪夢にほかならないだろう。ドアが開く。降車し、エスカレーターの列にくわわり、息を潜める。喉周りに触れたが、ひげは抜けるほどの長さでもないようだった。

 午後七時三二分。真白いホームドアを眺める。どこかの安全確認がダイヤを乱し、ホームはいつもより混雑していた。
 小さい頃、本当に小さい頃、駅のホームというものが恐ろしかったことを思い出していた。いつか見た夢ではホームが段々と傾き始め、やがて重力方向に平行となって、事物は落下していく。駅名の書かれた柱に捕まるが、やがて握力は終りを迎え、目が覚めるのだった。
 午後七時三四分、聞き慣れた電子音が鳴り響く。空気の震えが、ホームの人々のため息のようにも思われた。録音ではない駅員の放送が形式的に何かを謝罪する。電車が入ってくる。ホームを降りたその先には線路。何トンあるのかもわからない、減速しながら入り込む鉄の箱。ホームドアの先に、異世界は待っていない。
 
 ホームドアが開き、電車のドアが開く。車内は普段に比べれば混雑はしているが、たかが知れていた。電車のドアが閉まり、次いでホームドアが閉まる。ホームにそびえる白い壁はだんだん遠ざかり、電車の窓は車内を映し出す。
なるほど、ホームドアというのはよくできたものだ。感心しながら、喉のあたりを触る。いくらかは伸びているはずの喉仏のひげは、朝とあまり変わらないように思えた。